2009年08月23日

「ニュートラル」(という題名の本、ではない)

私は、大勢の人が半蔵門の駅のまわりで帰るに帰れなくても別段平気な顔で延々30分以上も時間を潰している様子を見ていたら、ちょっと暗い気持ちになった。これは私の中のバランスと、主にマスコミの作ったバランスのズレによるものである。沿道に馳せ参じて日の丸を振り歓声を上げることを「ニュートラル」とすsるマスコミが作ったバランス(来ていた人のほとんどにとっても、それがバランスの基準になっている。だから来たのだ)に対して、私にとってのニュートラルは”パレードなんかは見に行かないこと”だ。


ここのところの最後のところ、【私にとってのニュートラルは”パレードなんかは見に行かないこと”だ。】というのは、長い間、私自身にとっても、うんうんとうなずけるところであった。
つまり共感していた。

この引用部分の少し前、文庫本版でいうと(私の持ってる平成9年の初版だと)146ページのうしろから6行目から、この章の最後のところまでは、全部引用したいくらいだ。
なぜなら何度も読んで何度もうなずき、この本全体の特に印象に残る数箇所のひとつだったから。

この本とは(もったいぶりすぎ!)こちらです。




ナンシー関の本は、(主に文庫で)本をみつけしだい即買いし、だいたい売り払っていた。亡くなってからも、何冊か買ったが、未発表あるいは自分の未読率が高くない本は手を出さず、やっぱり読んだあとはブックオフ行き。
そんな中、残っているのは、この『信仰の現場』と、対談ものの『隣家全焼』と『地獄で仏』。対談ものは、相手のあぶなっかしさとナンシーの冷静さの対比がなんともおもしろく・・・(でも最近読み返してないので今読んだらまた違うことを思うかも)。
いずれにしても、テレビの人のことを書いているものは、もちろんおもしろいのではあるが、取材したり創作したり、の文の方が読み返すのによかった、のだろう、私の場合。

この『信仰の現場』は、ほんとに取材をしていて、文を書くために「現場」にいる人に話しかけたりもしている。
私が「好き」なのは、歌舞伎座前売り券売場と発明協会の話。
それと別に、この、今の皇太子と雅子さんの結婚パレードについての章が、「思想的に」とても貴重なことが書かれている、と、ほんとにずーっとそう思っていた。

しかしですね。
このような態度を「ニュートラル」と言っている限り、やはり、憲法は改正されてしまうだろうし、在日の人々と自分の関係について真剣に考えたりすることは、決してないのではないか、という気がしてきた今日この頃。

章のほぼ終わりあたりからも引用してみる。

・・・そのヘルメット姿の活動家たち《引用者注:パレードの日に「反天皇制」の集会をしていた人たち》と、沿道で日の丸を振る人たちは、私にとっては(正反対ではあるが)同じなのである。同じ、という言い方はへんか。正と負の違いだけで同じ数値に見えるのだ。だから自分をニュートラルだと思っている私は、日の丸を振るという行動にものすごく抵抗があるし、ニコニコしながら振ってるのを見ると、何も考えてないとは知りつつも、「おいおい」と思ってしまうわけだ。
 みんな無思想で日の丸を振れる日本、がどうゆうことを意味するのか、むずかしくてわからん。自分がこうゆう暗いというか嫌な気持ちになっていると言うことは、わたしは本当にニュートラルなのか。《下線、太字は引用者》


この最後の太字下線にしたところは、やっぱりさすがナンシーだと思う。とにかくカンがいい。
そうよ、ニュートラルじゃないのよ。
ていうか、ニュートラルなんてないのよ。

よく、なにかコトがおきると、「ナンシーだったら何ていったか・・」と言う人がいたけど、私、生前はそこそこ熱心な読者だったつもりもあるけど、それは違う、ような気がずっとしていた。
その説明は今でもうまくできないけど、そういう気がする。

彼女はとにかく、非常に冷静だし落ち着いていた。
あの若さで、幾重にもつみかさなったよくわけわからない世間の上澄みの、色や質をちゃんとみて、それをのけたらどんな地面の模様が出てくるのかを見ることができた。
その時点での地面をニュートラルというならそうだけど、そこから先、がほんとはさらにあるのだ。
ナンシーの掘り下げが浅はか、という意味ではない。
世間の上澄み、というのは、日本では大変質量が大きく、地面に足がついていなくても、それをまとっただけでニホンの大地の上にいることができる。
その中で、とりあえず地面にまでは到達していた彼女は、やはり稀有の存在だった・・・のかもしれない。

だけど、さらに地面の模様のその下をみないと、なんでそういう模様になっているかをほじくり返さないと、歴史というのはつかめないのではないか。

でも、つかみたくない、という気持ちもあるのではないか。
それが、自らを「ニュートラル」というような気持ち・・だろうか。
(このへん、自分に言っている)

とにかく、自分としては、この、若い頃に出会って座右の書、と思ってきた本についてこのようなことを思うようになるとは、意外であった。






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2009年01月10日

『反貧困』 湯浅誠




今さらなのですが読みました。

年末年始の派遣村の村長でありNPO法人「もやい」事務局長でもある湯浅誠氏の著。

なんか年のせいかシナプスのつながりがわるく、この記事を書いたときに、その前の記事で「もやい」のことをとりあげてたのを自分で忘れていたていたらく。
湯浅さんは私より数歳年下ですが、シナプスのつながりが凄く良いです。
シナプスのつながりが良い、というのは、ものごとをつながらせる力があるということです。

この本の第U部が、「つながり」を扱っているパートになります。
T部では「貧困」とはなにかを具体例をあげながら紹介・解説し、Uでは、それに対してどうするか、という「反貧困」活動が紹介されています。

「もやい」の仕事の主なもののひとつに、生活困窮者に対して連帯保証人を提供することがあります。
それについての部分を引用。
しかし私たちは、「行政がやらないから」という消極的・補完的な動機だけで活動しているわけではない。私たちが連帯保証人提供に踏み込んだのには、もう一つ動機があった。それは、連帯保証人問題はさまざまな活動分野の結び目になる、という認識である。

1990年代後半、野宿者支援の活動を通じ、貧困層が激増したことを感じ取り、
全体のわずか数パーセントに過ぎない人たち(野宿者)がそのペースで増えていくということは、その背後に膨大な数の貧困層が生まれていることを意味していた。野宿者に限定されない貧困問題に着手する必要があると感じた。
 しかし、路上にへばりつくように活動していると、類似の貧困問題に対応している団体、たとえばDV女性シェルターの人たちと出会う機会がなく、貧困問題に取り組む広がりを作れる状態になかった。しかし、少ない人数で過剰な仕事をこなしているのはどこも同じだとはいえ、それぞれの活動に埋没したままでは問題の広がりに対応して活動領域を広げていけないことも、また事実だった。その点、連帯保証人の問題は、貧困状態に陥る多くの人たちが共通して抱えており、どの団体も苦慮していた。そこで、連帯保証人を提供する活動をすれば、さまざまな分野の活動と接点がもてるのではないかと考えた。共通の課題を括り出し、それを軸に連携の幅を広げること。それが連帯保証人問題に取り組み始めた、もう一つの動機だった。

この、問題点の着眼と解決のしかたがすばらしい。
自分の仕事を一生懸命やっていればなかなか余裕なんてないものだ。だけど広がりがないし、自分たちでできることをやるしかない、というのはその通りなんだけど、問題の大きさが見えているのにできないことがある、というのはいずれはストレスになると思う。
抱え込むのではなく、ほかの団体と手を携えられるところは携えていくそのやり方が絶妙。
そうやって、協働していき他とのつながりをつくることは、それこそ、ボランティアで活動する人々ひとりひとりや、団体にとって、「溜め」
をつくることになるのだと思う。

この「溜め」っていうコンセプトも良いです。
「溜め」とはたとえばどんなことなのか、具体例を挙げているところを引用。
あるときこの”溜め”の話をしていたら、取材していた外資系通信社の記者が「自分にも”溜め”があったんだな」と言い出した。聞けば、前の会社でリストラに遭って三年間失業状態だったと言う。フリーライターとして仕事をしていたが、収入は非常に少なかった。しかし、ある友人が今の会社を紹介してくれて、なんとかまたこうやって取材ができている。自分の場合は、三年間失業していられるだけの金銭的な”溜め”があり、また仕事を紹介してくれる友人という人間関係の”溜め”があったから、また好きなジャーナリズムの世界で仕事をしていられる、と。

私自身は現在生活困窮者ではないけれど、うまくいかないときというのは”溜め”が減っているときなのかもしれないと思った。

湯浅誠氏は、年末年始、派遣村をやりながら、元旦早朝の「朝まで生テレビ」にも出演していた。若いからできるっつーかなんというか。
(テレビは見てないのですがそのうちyoutubeで出る・・ことを期待。)

”溜め”がない状態のことを想像できない人は、「自己責任論」を言うんだろうな、と思いました。

それにしても、役所窓口での「水際作戦」、すなわち、生活保護申請あるいは相談にやってきた人への窓口担当者の違法度満点な対応のしかたは、これはなんとかならないのだろうか。このように、一般書の中に書いてあるというのに・・。
公務員達自身も、人数削られた中で成果をあげることをもとめられている、点にも、作者は触れていて、一方的に窓口担当者を責めているわけでもないところに注目。だって、できるだけ受給させない、という方針がトップ=政府の方にあるとしか思えないし、このやり方だと。

”溜め”の話に戻りますが、”溜め”のない社会に生きるのは不安です。自分の”溜め”がなくなったら社会の”溜め”にたよりたいけどその絶対量が少なければ頼れない。
また、社会の”溜め”が少なければ、ひとりひとりの”溜め”も消耗しやすいのではないか。そのようにも思いました。

とにかく、再度言いますが、「つながり方」を提示しているところが特筆すべきところだと思う。
そして、私自身、なんというか、励まされました。
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2007年09月14日

「アメリカの狙いは何かを取材したい」

記事タイトルは、

『豊かで複雑な、僕たちのこの世界』森達也対談集中の、ある対談の小見出しです。

長年、テレビ・ラジオでドキュメンタリーをつくっていた吉永春子の発言。
かなりドキっとしたので、とりあえず、引用だけ。
(以下、青字引用部分)

森 テレビはもう面倒だと最初にお聞きしちゃったけれど、でも「これだったら撮ってもいい」というテーマはありますか?

吉永 いっぱいありますが、ずっと考えてきているのはアメリカのことですね。具体的に言うと、たとえば郵政民営化で、アメリカが何を狙っているのかということ、昨年
(引用者注:この対談は2006年3月の雑誌に掲載されたのが初出なので2005年ですね)十一月にブッシュ大統領が来日したでしょう。そのとき、京都で小泉首相にブッシュは何を言っているかといったら、郵政が民営化した際の何百兆円の資産について、自分たちにも公正に門戸を開け、と圧力をかけている。
 民放のBS放送が始まったときに、アメリカの「マネー」と「兵器」をやったことがあるので、いったい何が日本に起きて、誰がアメリカのマネーと結託しているのか、調べてみたいのです。



・・・調べてください。是非。

私はこの話が大変怖いです。日本のなにもかもを、アメリカの軍事資源とされているみたいな感じがします。

この本については、また別の機会に触れるかも。
まだ全部読んでいないので。


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2007年06月16日

『フューチャリスト宣言』の、販促対談@

販促対談、なんて書きましたが、正式には、

刊行記念特別対談・筑摩書房HPオリジナル
 梅田望夫・茂木健一郎
 「始まりとしての『フューチャリスト宣言』」


がタイトルです。

梅田望夫さんといえば。茂木健一郎さんといえば。
私にとっては、「年の近い有名人」です。

けっこう年を気にするフタバ。
言い訳(が必要かどうかわかりませんが)をするならば、日本の近現代は短い間にいろいろな変化があったので、年代によて、教育やまわりのメディア環境や内容がかなり違う。それによってのモノのとらえ方や発想の特徴が、年代ごとにあるんじゃないか。と思うからです。


以下、引用部分は青字とし、順次コメントしていきます。


【茂木】 『フューチャリスト宣言』の中で僕が言っていることは、これまで心の奥深くに隠してきたことだったんです。だから、僕の周囲では驚いている人が多い。「茂木がこういう本を書くとは思わなかった」と。これまでは、心脳問題に関するもの、あるいは文学的なというかウェットなことを書いてきましたから。でも、「はじめに」に書いた通り、僕には「未来志向」が子供の頃から根強くあって、今までそれを封印してきたのですが、この本でそれを出しちゃった。本音を出しちゃった。そういう意味で、自分にとって爽快な本です。
 この本をスタートラインにして、やれることがいろいろあるような気がして、僕は覚悟ができたという感じがします。実は、ある時期までは、談合社会でうまく生きている人をうらやましく思ったりもしていたんですが、そういう思いがだんだん減っていって、この本を書くことによって、禊(みそぎ)ができたというか、「そっちはもういいや」という感じになりました。

【梅田】 僕はもう少し前から腹をくくったんですが、でも、そうだなあ、42、3歳の頃までは迷いがあった気がします。そっち(談合社会)のほうでやっていくというパスが見えていた時期でもありましたから。数年前にそうじゃないほうにぐっと舵をきって、さらにこの本でそういうメッセージをクリアに出せたと思います。



その『フューチャリスト宣言』をまだ読んでいないので、なにが書いてあるかわからないのですが、「未来志向」という言葉に、同年代心がピクリと反応。
「未来」といえば、鉄腕アトムの背景のような未来都市、という刷り込みがかなりあるのがこの年代のはずでは。
あと、未来はなんとなく、明るいもののはず、というのも、この世代の特徴かと。たぶんね。
鉄腕アトム、フタバが生まれる前からやっていて、モノゴコロを形成するのに、おそらく相当影響を与えられてしまっている気がします。

あと、「談合社会」。
これも、あてずっぽうですけど、「ふつうの日本社会」のことじゃないかなあ。
これに、結局はあわせてるし、めだった反乱もしてきてないけど、内心結構ヤダ、と思っているのもこの世代じゃないかなあ。

【「平日の午前11時10分」に「野球@HOME」とスケジュール表に自由に書き込める人生(仕事なんて代わりに朝早く起きてやれば一緒なんだから)を、僕はずっと心の中で求めていた(1995年に野茂が初先発したときはまだ大組織に勤めていて、アメリカに来たばかりで、ぜんぜんそんな余裕も自由もなかった)、でもそんなことを求めない(考えもしない)人もいる。「好き」で「飯を食い」、人と自分を比較せず、自分で自分の時間のすべてをコントロールする人生を、僕は求めていた。ウェブの進化って、そういう可能性がより多くの人にどんどん開かれてくるタイプの変化なのではないだろうか。と、そういうことかな。野球の話はもちろん半分冗談だけど。】

↑これは、梅田氏のブログからの引用。
この気持ちはわかる。いや「少し」わかる。
梅田さんの場合、一応働くこと自体には意欲がある。
私の場合、簡単にいえば、「働きたくない」なのだ。
だから、就職するときも、「穴場」と思える会社をえらんだ。
とはいっても、旧来の日本的会社、この対談の言葉をかりれば「談合社会」でしかないわけで、「穴場」であるぶん、ラクや得はあったかもしれないけれど、それだけだなあ。という気もする。
働くスタイルについての想像力が、どうにも乏しかった、ともいえる。

対談続き。

【茂木】 この本を読んだ人がとくに強く反応しているのも、「インターネットのホームページやブログが、これからは名刺代わりになるんですよ」という部分ですよね。そこには若い人を中心に、たいへん共感してくれる人が多い。
 でも、この本は「リトマス試験紙」的なところがあって、「未来は明るい」と共感してくださる方も、反発される方も、どちらの立場の人もいる。もっと言えば、インターネットそのものに対して、あるいはグーグル的なものに対して、ポジティブにとらえるかネガティブにとらえるかということが、今、「リトマス試験紙」になっているのではないでしょうか。それは、「自民党に投票するか民主党に投票するか」ということより、「憲法改正に賛成するか反対するか」ということよりも大きな、哲学・世界観の差になっているのではないかと僕は思います。


どうなんでしょうか。「哲学・世界観の差」と言えるほどなんだろうか。
私の「グーグル的なもの」は、やっぱり、「方法論」「手段」でしかないです、今のところ。
ただ、私自身は、ネットを使いこなしているとはいいがたい。
ブログを書くなんて、すごく簡単だし、htmlを理解しているわけですらない。情報収集に「はてな」を利用してはいるが、「ブックマーク」なんかも、「本を読んで重要だと思ったところに線をひく」の使い易い版、としてしか使ってないし。「キーワード機能」がうざいと思って「はてなダイアリー」も使ってない。

たとえば今、ひとびとが憲法改正(て言葉も気に食わないけど)ハンタイなのかサンセイなのか、ということの方が、私にとっては気になること。
人は意見を変えることもあるが、たとえば、賛成の人がいたとします。
きっかけというのはどこにもころがっているので、その人が、たとえば、ネット上の何かをみて、意見を変えたとします。
でも、リアル世界のメディア、本や新聞がきっかけになるかもしれないし、リアル世界で出会った誰かの言動がきっかけになるかもしれない。
とすれば、ネットでの出会いもリアルでの世界も同じ。
・・・・というのは、たぶん、梅田さんたちの言うことを理解してないんだろうな。

そうじゃなくって、リアル世界での出会いとは、量も質もケタ違いなものがネット上にはあって、それを、あの映画はどこでやってるかしらと調べる程度でない、もっと深く多方向からいろんな視点から考えるチャンスのあるネット上での出会いの方がスゴイ、というその「スゴさ」を私が理解してないだけ?ってこと?
つまり、ネット上で生きる力(ウエブ・リテラシーと梅田氏は言ってるようですが)をつけたものの世界のひろがりというのはものすごい、ってこと?

・・・・だろう、とは想像できるんですが。

でも、その、ネット上でのあれこれというのは、それこそ、日本の「談合社会」を形成しているなにかを崩すことができるほど、強いかなー。
というか、そのすごい出会いの世界をいかして、リアル世界での意志決定や哲学を左右することになる、っていうのがわからない。
「はてな」上でも、なんだかやたらと、「人のことを気にする」ことばっかりに熱心な人がおおぜいいるところを見ると。これ、「談合社会」じゃないの?
(「はてな」で検索して、「ブックマーク」とか「揉め事」とか見てると、しょせん「空気が読める」かどうかの話してんじゃないかなーと思っちゃいますよ。)

続く・・・続ける、つもり、です。
今日はここまで。
posted by フタバ at 08:34 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース本ニッキ(本の感想)

2006年09月10日

『ウェブ進化論』梅田望夫(ちくま新書)〜第1回

この本は、電車の広告で知りました。
絶賛する読者の声を集めたタイプの広告で、それらの声は、どうも、「自分の言いたいことをこの本が言ってくれた!」的なものが多かったし、若い人が多かったような気がします。
フタバもこうしてブログなんぞやってますが思いつきではじめましたし、未だにトラックバックについて考え込んでるようなスロウな人なので、ま、話題の本でも読むか、というスタンスです。

というきっかけなので、順番に読まずに、まずは【第4章 ブログと総表現社会】から読み始めました。

既存の権威あるメディアがいいそうなこととして、ブログなんぞ玉石混淆でしかも石が主である、というのがあり、それに対する論が展開されていたところは、まあ、納得できました。

しかし、いきなりちょいとびっくりする内容が。

作者は今シリコンバレーに住んでいて、【日本のテレビはまったく見ず、日本の情報はもっぱらネットに依存した生活を送っている。】
その作者が、2005年の総選挙での小泉自民党の圧勝を当てた、という話です。

【私は総選挙の結果に興味があったので、解散と同時に丹念に日本のブログ空間の言説を読んだ。私は情報を分別するリテラシーは高い方なので、数時間かけて、だいたいの感じを掴むことができた。そして驚いた。凄い小泉支持率じゃないかと。】

その後、作者のおかあさんが、今回の選挙はどこに入れるべきかねえという相談をしてこられたそうですが、それに対して、

【私(作者)は母に、今回は小泉支持だと伝えた。】

そうです。
え?なぜ?
日本のブログ空間で小泉支持率が高かった、それを把握した、というのはわかりますが、おかあさんは、どこが勝ちそうかねえという『予想』を尋ねてきたのではなく、どこに入れる(投票する)べきか、と聞いたのだと思いますが。

『小泉支持のブロガーたちはこれこれの理由で支持すると書いていて、それが納得できたから。』という文が抜けてるだけなんでしょうか?

たしかにこれは、

【総表現社会参加者層はブログ空間に影響されて判断し、リアル世界でミクロに「大衆層」に影響を及ぼす。そんな連鎖が起きた最初の事例として小泉圧勝を読み取ることもできるのではないだろうか。】

の例にはなると思うんですよ。
それに、この話は、【小泉圧勝を解散時に誰が予想できたか】という小見出しのついたパートにはいっているものなので。

でも、『投票』という行動についてもそういう反応なんだっていうのは・・・んー。
『投票』は、おおぜいの人がしているのと同じような選択をすること、じゃないですよね?

なにか私、いいがかりつけてます?
それとも単に読解力がおかしいだけ?


***

じつは、このエントリー、本を読んだばかりの6月に書きかけて上記***より上までで放置してました。
時間がたちすぎて、世間的にも「ニュース」な感じの本でなくなってきたし、個人的にも、フレッシュな感想をいいにくいのですが、上記の件は、やっぱり気になるのでアップしておきます。
要は、『小泉が勝ちそうだ』ということから、『小泉が勝ちそうだから小泉に投票すべきだ』への展開が、私には全く理解できなかった、ということです。そういう指標で投票する人もあるってことだろうか・・・と大変おどろきました。

もちろん、上記のことが気になりながらも、気をとりなおしてはじめから読み直しました。

興味深いと思ったことはいくつかあります。

P.56あたりにある、【ネットの「こちら側」と「あちら側」】という考え方。

【インターネットの時代の到来からまだまもない1995年秋、ネットワーク・コンピュータ(NC)という構想が提唱された。NCとはハードディスクをもたないPCのことで、当時は500ドルNCとも称された。新しいコンピューティング・スタイルにおいては、インターネットの「こちら側」(端末)に情報を蓄積する機能(ハードディスク)は不必要になる、情報はすべてインターネットの「あちら側」に持てばよいのだから、という思想が背景にあった。】

当時(95年)の処理性能ではその思想を実行することができなかったので、その時点でのNCは成立しなかったそうだ。
しかし、

【チープ革命はそれから10年間たゆまず進展し、ネットワークへのアクセス速度だけでなく、コンピュータの処理性能も著しく向上した。そして今や「こちら側」に置いた情報を「こちら側」で処理するコンピューティング・スタイルよりも、「あちら側」に置かれた情報を「あちら側」に作った情報発電所で処理するほうが高性能かつ合理的だというコンセンサスが生まれつつある。】

【もしこれから多くのユーザが、自分の情報を「こちら側」に置かずに「あちら側」におくほうが色々な意味で良いと確信すれば、産業全体における情報の重心は移行していく。NC構想当時は「ネットの高速化」だけが議論の背景にあったが、今は「あちら側」にある情報発電所の処理能力やセキュリティ面での優劣も考慮に入れ、情報の重心についての議論がさらに深化している。】

この本での用語を応用するなら、フタバが最初にPCを買ったとき、目的のひとつとしてぼんやりとイメージしていたのは、PC内における、つまり「こちら側」における、情報処理、というのもあったと思う。
頭の中のメモを整理できる道具として使えるのではないかという。

たとえば、自分の興味ある項目を、いろんな角度や状況で、ことあるごとに再考する、とか。
まあなんでもいいんですけど、たとえば「靖国参拝の是非」だとしますね、自分が考えたことのメモ、ほかの人の発言でこれはヒントになると思った考え方、参考になる書籍や報道の記事、等々を適宜引き出したい。
と、そんなことができるのかも。と思ったんですね。

ほかには、記録。
興味のある分野についての自分の感想なり考えなりを、手書きでノートに書くよりパソコンつかえばせいりせいとんできるのでは、っていう。

以上のふたつについては、結局、「あちら側」が解決してくれたことになるのかな、と。
つまり、前者については、ネット上での情報検索ができるし、後者については、こうしてブログってことができるわけで、ブログができれば、自分の書いたことすらネット上で検索できる。
また、後者については、単純に、自分のPCが壊れたりして使えなくなっても買い替えたりしても、「あちら側」に自分の作文(等のデータ)を置いておくことで、簡単に再アクセスできる。
・・・という理解で、一応まちがってない、と思うのだけど。

ちょっと長くなりそうなので、いったんここで切ります。


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2006年08月09日

「美しい国へ」安倍晋三著 −その2−

小学生のときはじめて税金というものを知り、みんなでお金を出し合ってみんなのために使ってるんだ、なるほどなあ、と思ったものだ。
同時に、トーベヤンソンがムーミンのマンガ版で、ムーミン一家が税金の取り立てから逃げようとする話をかいていて、うーんこれはどういうこと?と不思議だった。つまりムーミンたちは悪い人たちではないはずなのに…?という不思議。今でもそうだが子どもの頃はさらに単純だったもので。

先日のエントリーの続き。
下記青字部分についての追記です。

【国民がパスポートをもつことによって国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも、応分の義務が生じるということでもある。
 たとえば、タックス・ペイヤーとしての義務を果たす。一票の権利を行使する。自分の住む町を含めた公共に奉仕する−個々人がそうした役割を担わなければ、国家というものは成り立っていかない。
 公害訴訟など、過去の国の失政を追及する国家賠償請求訴訟において、原告が勝利すると、マスコミは「国に勝った」と喝采することが多い。しかし、その賠償費用は国民の税金から支払われるのであって、国家という別の財布から出てくるわけではない。だからこそ、その責任者は被害者への責任だけでなく、納税者である国民にたいする責任がきびしく問われるのである。国家と国民は対立関係にあるのではなく、相関関係にある、というべきだろう。】

日本人はお金のこといわれると弱いですからね。
でもここ、ちょっと意図がわからないな。
賠償すべき被害をうけた人へは当然賠償すべきだと思うし、それが失政ゆえなら、その他国民一般は、その失政を責めるべき。失政の担当者たる国家が、被害者・納税者両方に対して責任を問われるのはあたりまえ。
マスコミがなんていえば納得するのかしらん。
それを具体的に知りたいですね。【相関関係】って、ちょっとヘンじゃない?


意図がわからないと書いたが意図はわざとぼやかしてるんじゃないかなあ。

国の敗訴が妥当だという前提でいうならば、公害がおきたことに国の責任があるということであり、賠償というかたちで被害者に対して埋め合わせするのは当然のこと。
その公害で被害がなかったほかの国民はそのときたまたま被害をうけなかっただけであり、自分自身がまた別の公害なりに当たってしまった場合には自分だって税金を使ってどうにかしてほしいにきまっている。
つまりお互い様ってこと。

いちばんのぞましい「最善」のことは公害がおきないことだが、もし起きてしまってかつ裁判ではっきり国の責任があるということになれば、税金使ってでも状況改善するのが「次善」である。(それに、裁判だって、不公正などがおきたらそれを少しでも状況改善するために存在しているのだから。税金により。形だけかもしれないけど国民が信任した裁判官が判断しているのですよ)
そこで政府は税金払ったほかの国民に責任がある、というならばそれは二度と同様なミスによる公害をおこさないようにする、しかないではないですか。
なんのために税金を払った国民のことをもちだすのか。国民は自分達のために国(政府)に税金という形で金を預けているにすぎない。
国(政府)は国民のために働くのが使命であって、逆ではない。


【国民がパスポートをもつことによって国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも、応分の義務が生じるということでもある。
 たとえば、タックス・ペイヤーとしての義務を果たす。一票の権利を行使する。自分の住む町を含めた公共に奉仕する−個々人がそうした役割を担わなければ、国家というものは成り立っていかない。】

↑ふたたび引用しましたが、これじゃあ国家って、江戸幕府みたい。
年貢をおさめりゃ統治してやるぜ、ってな。
一票の権利の行使の義務っていうのも、江戸屋敷の奥様に会いにこさせてやってんだぜ、っていってる参勤交代みたいですねえ。
税金はらってるし、世襲政治家の誰かさんたちみたいに保険料をうっかり払い忘れたこともないし、そんなワタシは「保護」されて当然と思います。

安倍さんのお気持ちとしては、「国民は政府(含むボク様)の言うこときいてりゃよろしい」が正直なとこなんだろう。だから【だからこそ】以下の文ばなんとなく意味がつかみにくいふしぎな文になってるのだと思う。
【納税者に対する責任がきびしく問われるのである】とは言うけど、「だから、公害訴訟のお金なんて払えないよ」とまでは言わず【相関関係】というよくわからない用語でしめくくる。匂わせておいてスマートに言ってるつもりなんだろうなあ。

この本についてフタバが一番がっかりしたのは、こういうところなのだ。
つまり、マスコミ相手に「しゃべって」いる場合って、その場のいきおいで適当なあいまいな言葉でスルっと受け入れられちゃったりするでしょ?
でも書き言葉は何度も読み返すことができるし用語がヘンならその指摘もできる。
だけど、この本て、「しゃべったことを書き取った」のでほとんど構成されてるんじゃないかなあ。
「しゃべったことの書き取り」自体がいい悪いというのではないけど、まがりなりにも「政策を語る政治家」を名乗るなら、もうちょっとちゃんとした文章があるかと思ったけどそうでもなく。

とにかく、意外性がなかった。
あったとしたら、思った以上に「自戒」ということを知らない人だったということがわかった、ということだけです。
posted by フタバ at 11:00 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース本ニッキ(本の感想)

2006年08月06日

「美しい国へ」安倍晋三著/文春新書

政治家のことばって、意図を汲むのがほんとにむずかしいと思う。
特に最初から政治家の人のことばは。石原慎太郎のことばなんて、わかりやすい方だな。

とくにこの人の場合、最初っから、「政治家世界閾」に居っ放しで、そこから出るつもりなく、しゃべっているようなところがある。著書をよめば、多少は、日ごろの政治家ことばのみではない、あるいは、なにか「ああそういうことか」と感じるところがあるのではないかと思ったのだが・・・。

まず、ちょっとあきれたのが、自分の父(安倍晋太郎)と祖父(岸信介)への圧倒的な賛辞。というか全面肯定。

【祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。】p.24

この部分の前にあるのは日米安保条約の話題。

【わたしは、祖父に「アンポって、なあに」と聞いた。すると祖父が、
「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ。なんでみんな反対するのかわからないよ」
そう答えたのをかすかに覚えている。】p.23

とのことですが、これはま、小学校に入る前の話なので。

【後年になって知ることになるが、1951年、サンフランシスコ講和条約といっしょに結ばれた日米安全保障条約には、アメリカが日本を守るというはっきりした防衛義務を定めた条項がなかった。事前協議の約束もない。このとき、アメリカとしては、日本に自由に基地がつくれることになっていたのだ。
 そればかりか、日本に内乱が起きたときは、米軍が出動できることになっていたり、アメリカ人が日本国内で犯罪をおかしても、日本には裁判権がないなど、独立国とは名ばかりの、いかにも隷属的な条約を結んでいたのだった。おまけに、条約の期限は、無期限になっていた。
 祖父はこのとき、この片務的な条約を対等にちかい条約にして、まず独立国家の要件を満たそうとしていたのである。いまから思えば、日米関係を強化しながら、日本の自立を実現するという、政治家として当時考えうる、きわめて現実的な対応であった。】p.23〜

ふーん。おぼえときますよ、そういう認識だってことは。

以下は、以上の引用箇所と同様、【第1章 わたしの原点】中にあるところなのですが。高校生のときの話です。

【「新条約には経済条項もあります。そこには日米間の経済協力がうたわれていますが、どう思いますか」
 すると、先生の顔色がサッと変わった。《岸信介の孫だから、安保の条文をきっと読んでいるに違いない。へたなことはいえないな》−そう思ったのか、不愉快な顔をして、話題をほかに変えてしまった。
・・・(中略)・・・
中身も吟味せずに、何かというと、革新とか反権力を叫ぶ人たちを、どこかうさんくさいなあ、と感じていたから、この先生のうろたえぶりは、わたしにとって決定的だった。】p.21

これは、『こちら側』も気をつけなければいけないことですね。
『こちら側』ってのは、安倍さんみたいに「完全安全政治家閾」にいない立場として、ってことです。
主流や保守に反対する人の中には、稚拙でお粗末な方法しかとってない場合も実際多かったと思う。
憲法九条を守る、にしても、やり方に工夫の余地はおおいにあったのでは。


***

次の箇所はなかなか興味深かった。

【たとえば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとのひと言でかたづけられることが多い。しかし、はたしてそうだろうか。
 たしかに軍部の独走は事実であり、もっとも大きな責任は時の指導者にある。だが、昭和十七、八年の新聞には「断固、戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化するなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。】p.25

これは、【その時代に生きた国民の目で歴史を見直す】という項の中にある文。
つまり、「国民だって、戦争に賛成したでしょ?」ってことが言いたいのね。
こういう言い分に対しては、「昭和十七、八年ならすでに翼賛体制ができていて、政府がきめたことに反対できる雰囲気はなかった」とか言うだけでは、駄目なのかな、と最近思う。たしかに、日本のマスコミはレベル低いですから。日本人も付和雷同ですから。
ああでも、こういう言い方って、いかにも安倍さんが言いそうだな。
彼は、やっぱり、NHK番組事件のとき、「政治家として圧力を与えた」といえるとフタバは思ってます。
マスコミを批判することはかまわないと思うけど、この人の場合、最初っから、マスコミ報道に現れている一般人の声には、耳をかたむけるべき要素がある、というタテマエすらないんじゃないかなあ。

それというのも、やっぱり、【父、晋太郎のあとをついで、わたしが代議士になったのは】(p.37)なんぞとさらりと言えてしまう感覚からきてるんじゃないかなあ。

***

【第三章 ナショナリズムとはなにか】では、特攻隊のことも書いている。
なんかもう長々引用するのもいやなので印象だけ書いておくと、
安倍さんのおじいさまも、死を覚悟して安保をすすめたのかもしれないけど、反対派が家におしよせたときも国家警察が保護してくれたわけだし、戦犯として指名されたときも、偏頗な裁判かもしれないけど、一応裁判はうけることになっていたわけだし、特攻隊に配属され志願する以外なく志願してしまえばもうよほどのことがなければ死ぬしかなかった人の思いを、ほかでもない「政治家一家」の人にこのように【たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるのだろうか】(p.103)なんぞといってほしくないな。

***

国家と国民については、こんな感じ。

【国民がパスポートをもつことによって国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも、応分の義務が生じるということでもある。
 たとえば、タックス・ペイヤーとしての義務を果たす。一票の権利を行使する。自分の住む町を含めた公共に奉仕する−個々人がそうした役割を担わなければ、国家というものは成り立っていかない。
 公害訴訟など、過去の国の失政を追及する国家賠償請求訴訟において、原告が勝利すると、マスコミは「国に勝った」と喝采することが多い。しかし、その賠償費用は国民の税金から支払われるのであって、国家という別の財布から出てくるわけではない。だからこそ、その責任者は被害者への責任だけでなく、納税者である国民にたいする責任がきびしく問われるのである。国家と国民は対立関係にあるのではなく、相関関係にある、というべきだろう。】

日本人はお金のこといわれると弱いですからね。
でもここ、ちょっと意図がわからないな。
賠償すべき被害をうけた人へは当然賠償すべきだと思うし、それが失政ゆえなら、その他国民一般は、その失政を責めるべき。失政の担当者たる国家が、被害者・納税者両方に対して責任を問われるのはあたりまえ。
マスコミがなんていえば納得するのかしらん。
それを具体的に知りたいですね。【相関関係】って、ちょっとヘンじゃない?

***

後半は、まあ、言えば、政策面についての持論。
年金は、よい制度であり破綻しない、ということをさかんに述べているようです。
日中関係については、【政教分離の原則で】だそうです。
少子国家については、出会いが少ないという男女のために、国家があとおしすることも検討の余地ありだそうです。
まあほかにもいろいろあるんですけど、論じるというのには合わないくらいの、駆け足的にいろんなことが書いてある気が。
しょせん新書なので、しかたないんですけど。

***

で、題名の「美しい国へ」についてですが、これは、「美しい国へ向けて努力していこう」なのか「美しい国へささげるボクの決意」なのか、どういう意図なのかよくわからなかった。
まあその両方かな。

最後のページで

【わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国だ。】

とある。
この美しい自然、というのは、もちろんあるていど「保護政策」などあるのは知ってるけど、こういうことを紋切り型にいう人ほど、実際問題美しい自然の日本をつづけていくのにどうする、という話をしない。
この本でもまったく触れられてない。林業の苦境とかについてどう思ってるのかしらん。

***

この本によって、支持者って増えるのかな。
増えるかもね。
日ごろ見聞きしている安倍さんの発言からの印象が、この本を読んでとくに変わるということはないような気がする。もともとぼんやり支持してた人は、さらにぼんやり、はあなるほど、と思うかもしれないけど。
フタバ的には、「人間はまちがえる。権力の座にいる者は、一般人以上にそのことを意識すべきだ。」と思ってるのですけど、そういう視点が皆無(タテマエ的にも、とってつけたようにすら、みあたらなかった)なことが気になりました。
posted by フタバ at 08:38 | 東京 🌁 | Comment(2) | TrackBack(2) | ニュース本ニッキ(本の感想)

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