2007年06月03日

空気を読む

この「空気を読む」っていう言葉は、昭和の時代からあったのかな?

朝、めずらしくも見たテレビで、中学生の子どもがいる作家が話していた。
「今の十代はじめの人びとは(自分のこどもをみている範囲では)他人に対してとても気を遣う。その遣い方が大人のようであり、また、『空気を読む』というのは必須のことで、それができないと排除される」(大意)ということだ。
また、子どもが中学入学時、中1生徒の親だけをあつめて校長から話があり、その中の言葉として、
「こどもたちに接する上で、今と昔は違うから、何かあったときに、自分の経験値だけで測らないようにしてください」(大意)
といわれた、とのこと。

後者の校長の言葉は、耳をかたむける必要があると思う。
もちろん、同じところもあるし自分がその年齢であるときの経験が役立つことはあるだろう。
子どものときのことを、私はけっこうおぼえているつもり。
でも、そんな私だからこそ、気をつけなければ。
おぼえていることが、それがほんとに子どものときの気持ちそのままなのかは保証はなく、また、大人になっての解釈が加わっていることもあるだろうから。

順序が逆だが、前者について。
これはなかなか注意すべき点だと思う。
「空気を読む」という表現自体を、おおぜいが使うようになったのは、やっぱり最近(少なくとも平成)のような気がするが、そのような行為は、以前から日本社会で生きる上の必須として、ずっとあったのではないか。
そしてそれは、必ずしもプラスに作用するときばかりではないのだ。
簡単な話、戦争中は、みんなで空気を読んだ結果、戦争に賛成したわけでしょう?
そして戦争にハンタイする人はひこくみん、だったわけでしょう?

十代はじめの若い人びとの社会でも、そういう行為が定着しているということは、大人社会ではさらにその傾向が強いということじゃないかな。

もうひとつ、ほかの作家が言っていたことで、彼女が塾の教師をしていたときの経験から。
自分たちがこどものころは(彼女は39歳)、大人に対して距離があったけれど、今のこどもたちは、大人に対しても遠慮なく思ったとおりのことを大人にも言う、とのこと。(これも大意・・言っていたとおりの言葉を記憶することができない私。)
でも、それは、いいことだ、と彼女は言っていた。
大人だっていつもそう立派なわけではない、と子どもたちもわかっている、とも。

大人がいつでも正しいわけではない、というのはそのとおりで、子どものいうことが正しければ、たとえ年少でも発言する、というのは、フタバもいいことだと思う。
そこでどのように、子どもの言をとりあげるかで、その大人の価値がきまるだろう。年少の人々の考え方も、社会全体の知恵としてとりあげることができればそれは結構なことだ。
子どもにはない大人の判断力と知識と経験をもって、子どもの言に耳を傾ける、それが大人の存在価値だと思う。抽象的ですが。
posted by フタバ at 08:33 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのTrackBack URL
http://blog.seesaa.jp/tb/43715094
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。