2008年07月02日

インターネットと規制社会を考える(下)

前回の続き。
元ブログ記事はこちら

元ブログ記事は、前回の(上)を受けて、保坂氏の見解その他が書いてある。
「携帯でなく、パソコンからならフィルタかかってても子供も見られるのでは?」という私の疑問は、この記事をみて答えをもらうことはできないので、別の話。


「数分以内にメールの返事を出さないと仲間外れになる」ような仲間なら、それは互いに拘束しあう困ったつきあいだと思う。


というのは同意。

こういうよくない意味で緊密な関係というのは、たぶんいじめともつながってるだろうな。

学校社会というのが、そもそも閉鎖的ですから。
前にも書いたかもしれないけれど、大学生くらいになってから、ふと、「ああ、もうわたしは小学校や中学校にいかなくていいんだ。せいせいした」と思ったことがあった。
なにかいろんな意味で緊密だった小中学校時代。
私なんか、中学でのクラブ活動なんかもしてなかったので、拘束率は低かったと思う。
体育こそできなかったけど(これ、結構重要なポイントなのですがね)、別に「問題」おこすでもなく、成績もわるくないけどめだって良いほどでもないため、適当にすごさせてもらいましたけど、それでも、なんかあの独特な緊密感・・社会の圧迫・・レベルが低くても教師であれば従わなくてはいけない理不尽・・なんかを、もう味わわなくてもいいんだ、というのはすがすがしいなあ、と。
別に登校拒否になったわけでもいじめられてたわけでもなく、楽しく(むしろ積極的な時期さえあった)通学してたんですけどね。

でも、家かえってまで、メールが来るっていうのは、やっぱりヤだな。
保坂氏も、

どうしたら、メールに対して「時には返事しないよ」「忘れちゃった」と平気で言えるようなゆるい関係に組みかえられるのか、いい智恵があったら教えてほしい。


と書いていたけど同意です。

posted by フタバ at 05:17 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 少子化・こども

2008年07月02日

インターネットと規制社会を考える(上)

今回は、「保坂展人のどこどこ日記」というブログの1記事を読んで書きます。
新聞サイトとちがって、一定の期間がすぎたら自動的に(?なの?)読めなくなることがないので、ここでの引用は最低限にします。

2008年、携帯電話各社は子どもが使用する携帯電話についてフィルタリングサービスをかけることが原則となった。ところが、NTTドコモ等は、「政治活動・政党」(議員・それらの支援団体も含む政治活動や政党に関わる情報の提供)も有害情報としてシャットアウトしてしまう。この『どこどこ日記』も当然ながら、子どもの携帯電話からはアクセス出来なくなり、他の国会議員・自治体議員や政党のホームページ・ブログなどを見ることが禁止対象となっている。


ただでさえ政治教育が皆無に近いこの国で、与党が強行採決した国民投票法案では投票可能年齢を「18歳」(ただし議論百出中で、いまだ定まっていない)としているのに、政治情報を一律「有害」とするようなフィルター情報をカットして、未来の有権者はどうやって政治情報にアクセスすればいいのだろうか。しかも、フィルタリングサービスの範囲は、おおむね「18歳未満」「20歳未満」で、小学生から高校生まで基本的に変わらないというからあまりに一律的だ。


おおむね同意です。

ただちょっとわからないことが。

その、子供なり若者たちというのは、「自分のパソコンはもってないけど携帯はもっている」というケースはかなり多い、ことになるのだろうか?
携帯からのアクセスは、たしかに、年齢をフィルタリングすることができるけど、パソコンはできないはず、ですよね?

でも、携帯はほとんどの人がもっていて、収入が多くはない(漠然とした言い方ですが)家庭の子でももっている、ということだと、どうだろう。
ネットカフェなんかでも年齢フィルターはかけられますよね。
「家のパソコン」というものがオープンでつかえる状態でない子供と、そうでない子供とは、情報キャッチ機会に差が出るっていうことだろうか。

引用部分だけでみていると、何にもとづいて、携帯会社が「政治活動・政党」サイトにもフィルターをかけることにしたのかよくわからないんですが。

子どもはいつか大人になる。規制された「無菌室」では、子どもは本当に「危険な情報」や「事態」への対応するたくましく、したたかな力は育たない。自分が見ていいかどうかを大人が決める、学校やコンピューターソフトが決めるのではなく、自らが判断して選んでいく力が、必要だ。


これも同意です。

posted by フタバ at 04:46 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 少子化・こども

2008年07月02日

精神鑑定は公判前1回、責任能力結論出さず…裁判員制で原案

2008年7月2日03時04分 読売新聞の記事より。

やっぱり裁判員制度、不信です。

裁判の長期化を防ぐ目的から、原則として、鑑定は公判に入ってからは行わないようにするほか、鑑定結果が裁判員の判断に必要以上の影響を与えるのを避けるため、責任能力の有無などの結論には踏み込まないよう求めている。


だそうなのですが、

刑法は、被告が犯行当時、精神障害によって刑事責任能力がない状態(心神喪失)なら無罪、責任能力が著しく低下した状態(心神耗弱)なら刑を軽くすると定めている。


という法律があるにもかかわらず、なんですよ。
いいんでしょうか?

しかも、

警察庁の統計によると、裁判員制度の対象事件のうち、殺人、放火事件(年間計約1000件)の容疑者の約1割は精神障害、またはその疑いがあるとされる。


という現状なのに。

このあとの記事も、フタバさんの理解力においては、裁判員制度を施行するために、裁判員制度を適用しない事件とは違う扱いをする、というある意味不公平な、法のもとの平等はどうなるの?と思うようなことばかり書いてあります。

従来は、公判開始後に裁判所が精神科医に鑑定を依頼するため、例えば、「幼女連続誘拐殺人事件」の宮崎勤・元死刑囚の公判のように、最初の鑑定意見を不服とした側から再鑑定が請求され、審理が長期化することがしばしばあった。

 また、鑑定医は精神障害についての医学的判断にとどまらず、責任能力があったかどうかという結論にまで言及するケースが多く、鑑定意見と実際の判決が食い違うこともあった。東京・渋谷の夫殺害事件では、鑑定意見が三橋歌織被告(33)(控訴中)を「心神喪失状態」としたのに対し、東京地裁判決(4月)は完全な責任能力を認め、懲役15年とした。

 こうした精神鑑定の運用だと、裁判員に負担がかかり、わかりにくいことから、最高裁の研究チームが新たな運用方法を検討。まず、鑑定を実施する時期は公判前とし、公判開始後の鑑定は極めて例外的な場合を除き認めないとした。公判前整理手続きで、裁判所が検察、弁護側双方の意見を取り入れ、鑑定人を選ぶ。

 鑑定結果の示し方については、精神医学の専門家が責任能力の有無に明確に言及すると、裁判員に対する影響が極めて大きいと指摘。犯行時の精神状態や精神障害が犯行に与えた影響など、医学的な所見の報告にとどめ、「心神喪失」などの法律判断を結論として示さないよう求めた。

 また、起訴前に検察側が2〜3か月かけて鑑定を行った場合は、弁護側から問題が指摘されない限り、起訴後に新たな鑑定を行う必要はないとしている。



責任能力の有無、は、裁判の結果をも左右するわけでしょう?
有罪無罪、あるいは、刑の多い少ないについて。
なのに、それを語らなくて良い、考えなくて良い、というのはどういうことだろう。

裁判員制度の対象になるような重い事件、中心は殺人になると思うけど、人が人を殺すというのは、やはり大きなことで、そういうことにかかわるというのは、加害者被害者ともに、各自の人生に尋常でないインパクトをもたらすことだと思う。
そういうことについては、数ヶ月程度は時間をかけてよく吟味するべきではないのか?
というのがそもそも気になる。

ちょっとだけググってみたくらいじゃ、「心神喪失」「心神耕弱」などの意味はよくわからないな。
だから、その話題はナシにしとこう、っていうことだろうか。

いいのかなあそれで。

それと、そもそも、読売新聞の用語解説によれば、

法定刑に死刑か無期懲役(禁固)を含む事件に加え、故意の犯罪で人を死亡させた事件も対象となる。2004年は全国で3308件。ただし、カルト教団による犯罪など、裁判員が危害や報復を加えられる恐れがある事件は、裁判所の判断で対象から除外し、裁判官だけで審理する。



ということだけど、仮に、100件該当事件があって、その中に1件も【裁判員が危害や報復を加えられる恐れがある事件】がなかったら、100件とも裁判員制度が適用されるのだろうか?
もし、100件中、恣意的に数件だけが適用されるならば、裁判がおこなわれる条件が個々で違ってくるわけで、不公平じゃないのだろうか?

あと、話があちこちいってしまうが、

仮に、日本に死刑がなければ、裁判員の負担は軽くなるのではないか?
やっぱり、死刑がありうるような事件に限って、「パンピー」(ということばあったけど、この頃きかないなー)を巻き込む、というその了見がわからない。

でも、逆に、死刑があるから、裁判員制度というのが発案されたのかもしれない。

死は平等で、死の重みは誰にとっても同じである。
だからこそ、「パンピー」だろうが、それを考えなくてはいけないのではないか。
とも思う。
死刑制度が成立している国の国民の「義務」なのかもしれない。
殺人を全くしてないのに死刑になる、というのは、今のところ想定できないわけだから、
死刑というのは、死について、2つの違った点(実際に誰かが亡くなっているわけだからすでに発生した死、および、あらたに、『国』という人間はかかわっているが人間そのものではない主体が発生させる死)から考えなくてはいけない事項だし。

しかし。
しかしですね。

そうだとしたら、死刑の是非、死刑執行に関する情報開示について、検察警察の捜査段階でのいろいろあやしい疑惑、その他いろいろ、考えなくてはいけないことがたくさんたくさんあると思うのですが。

頭は混乱したままですが、とりあえずここまで。
posted by フタバ at 04:22 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 「裁判員制度」について

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